「人間っていいな」のルーツを探る
               2006.12.5初版  
               2007.4.27改訂版
               2014.4.20再改訂版 

                     小野耕三(バス) 

                     
              
こんな曲です(クリックで聴けます)
               (1992年9月、TMC第1回定演での初演奏)



「人間っていいな」のルーツ

 TMCが団の持ち歌として創立当初から歌い続けて来ている「人間っていいな」の誕生の背景を記述している唯一の書物が可山優零著「冥冥なる人間」である。その著者の可山優零(本名藤木徳雄:のりお)さんは、理科大を卒業後日立物流に勤務していた。1982年24歳のときに交通事故による頸髄損傷のため首から上しか動かない体になり、いくつかの病院を経て重度障害者を受け入れる現在の取手中央病院に入院した。同室の知的障害が残る中島篤伺さんに文字を書くことを教えながら、自分の考えを口述筆記するという気の遠くなるような苦労のもとにこの本を書き上げ、1992年川島書店より出版した。以下の「人間っていいな」誕生の話はこの本からの情報をもとに、TMC初代指揮者百田孝義さん、T1安本さん、私の近隣に住む松浦さん、中央病院の大山さん(TMCピアニスト大山昌子さんの叔母さん)、中央病院看護師鈴木(旧姓飯泉)さん等の関係者から聞いた情報も交えてまとめたものである。

 1984年5月同施設に就職したばかりの上中(うえなか)一弥さんの働きかけで同施設の患者11名で構成されたサークルがスタートした。ところが、それぞれ色々な重度障害を抱えた人たちが共通にできるものが何かがまず課題となった。その際に同施設に定期的にボランティアとして訪れていた松浦さんと松浦さんのご近所の中林さんがその会の司会進行役を買って出て、施設内のメンバーの要望に沿って小学唱歌や歌謡曲を歌ったり、紙芝居や童話の朗読をしていた。その内に初めは受身的であったメンバーが段々自主的に参加するようになっていった。

 1985年10月、このお二人が仕事の都合でこのボランティア活動が続けられなくなり、取手聖書教会の方々がバトンタッチし、多いときには10人もの参加者があった。この会は第一と第三の木曜日の午後に行う会であったため「木の会」(もくのかい)と命名された。それまでは施設のメンバーをボランティアが助ける関係であったものを、患者と(いわゆる)健常者とが対等な立場で一体となった会として運営されるようになった。

 この「木の会」で1986年1月から半年間にわたって「人間について」というテーマで話し合うことになった。そのメンバーの中に「人間っていいな」を作詩するというアイデアを出したケンちゃんが居た。ケンちゃんは本名を相原洋人(ひろと)といったが、なぜかケンちゃんと呼ばれていた。前掲書には1986年当時においてもうすぐ60歳になるという記述がある年頃の人で、すでに亡くなっておられる。ケンちゃんは9ヶ月の未熟児で生まれ生後2年間は保育器の中だけで育った。やっと保育器から出られたある日高熱に襲われて脳性小児まひにかかり、それから40年間両親の庇護の下に生活していた。両親の死後一時は叔母の家に世話になっていたが50歳ごろ取手中央病院に移ってきた。声が出せないし一度も学校教育を受けたこともないケンちゃんではあったが、カタカナで書かれた50音表を指で指し示して名詞を羅列しただけの不完全な文章で自分の意志を表すことはできた。そのような彼が「人間について」のテーマに対しもっとも強い関心を示した。詩の勉強もしたいという彼の要望に応えてボランティアの方の協力のもとに詩の本を朗読したカセットテープを毎朝毎晩聴いて勉強した。

 「人間について」の意見交換を重ねる間に、ケンちゃんが「人間っていいな」の詩を作るためのアイデアを出してくれた。ケンちゃんの指し示す文字を看護師の飯泉さんが文字に書いて文章にした。そのアイデアをもとに「木の会」会員と病院職員が知恵を出し合って以下のような「人間っていいな」の詩が出来上がった。

         人間っていいな

    人間っていいな  人間っていいな
    声は出ないけど  文字板使っておはなしできる
    手は動かないけど 目でなんだって見える
                耳で音だって聞ける
    そう彼女の足音だってわかるんだ
    ぼくは彼女が好き 彼女と恋をしている

    強い人がいる  弱い人もいる
    赤ちゃんも 若者も 老人もいる
    ぼくも保母さんも看護婦さんもいる
    人間ってみんなみんな友達なんだ
    人間っていいな 人間っていいな とってもいいな

 この詩をもとに作曲をして欲しいという要望を聞いた松浦さんは、自宅の1軒おいた隣の百田さんが早稲田のグリークラブ時代にボニージャックスと同期の間柄で親しいということを聞いていたので彼にボニー関係者による作曲を打診した。そこで百田さんがボニーのセカンドテナーの大町正人さんに依頼した結果、ボニーと音楽関係で親かった作詞家で作曲も手がける西村達郎さんが作曲することになった。西村さんの本業は作詞家であり、この詩の内容のすばらしさに感動した西村さんはその内容を十分に生かして歌として歌いやすい形の以下のような詩に作り変えた。 

       人間っていいな

  1.心と心が向かい合えば分かり合えるのさ
    心が話して心が聞いて心が見つめ合う
    心が愛して心が応え心が抱きあう
    それが僕達の明日への(*)生き方、
    人間って、とてもいいな
    人間って、とてもいいな

  2.強い人も弱い人も赤ん坊もお年寄りも
    ここに居る僕も君も、保母さんも看護婦さんも
    みんなみんな裸になって、心を重ねよう
    それが僕達の明日への生き方、
    人間って、とてもいいな
    人間って、とてもいいな

    注* この部分は西村さんが当初「素直な」としていたが(下の原譜面図版参照)、
        ボニーの大町さんの提案により「明日(あす)への」に変更された。
 


      (写真:「人間っていいな」の原譜面)(上) と 大町さんがらの葉書(下)

                         
 なお、こうした事情を勘案すると作詞も西村さんとなるのではないかとお話したところ、西村さんの意志として、この詩のアイデアを作ったのは「木の会」であり、作詞はあくまで「木の会」としておいて欲しいとのことであった。
 この作曲が行われた時期ははっきりしてはいないが、ボニージャックスのセカンドテナーであった大町さんが百田さんに送った最初の楽譜に記載されたメモから推定して1987年10月10日以前の夏から秋ごろと推定される。

 当時TMCの指揮をしていた百田さんがこの歌を団の持ち歌にしようと提案し皆が了承し、1988年3月の市民音楽祭で歌った後に取手中央病院への訪問演奏を行った。それ以後毎年3月頃に行われる白山公民館祭の後に定期的に訪問演奏を行なうようになった。
その後、公民館祭とは独立した形で、3月末にミニコンサートとして行うようになっている。

 「人間っていいな」はこのように多くの方々の努力と協力があって出来上がった。このような歌をわが団の持ち歌として歌えるようになった経緯を知り、そうしたすばらしい詩を作ってくれた相原洋人(ひろと)さん、通称ケンちゃんをはじめとする「木の会」メンバー、及びそれに曲をつけて我々の持ち歌となるまでに協力いただいた方々に対する感謝の気持ちを忘れないようにしたいものである。

 筆者は2007年4月に、作曲者の西村達郎さんにお会い出来る機会を得た。そのおりに直接伺った内容を加筆修正した。西村さんにはこのページを借りて改めて感謝しお礼申し上げる次第です。

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